ブログを読んでくださる方からメールをいただいた。

「ブログ、、長いのもいいですが、たまには5行くらいでもいいと思います(笑)」

そうか、、じゃあ、今週は、その方の意見に従って、5行にしよう、、と思った、、のも束の間、気が変わってしまった。(ごめんなさい!)久しぶりに書棚を見ると、紀野一義氏の著書で「維摩経」の文字が目に入り、つい手にとりめくる。と、以前に読んで感動したところが開き、またまた感動してしまった。うーん、ブログに載せたいなあ〜〜〜!と、思いが募り、あっさりと5行は取りやめることにした。以下は、本の中から抜粋。

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一燈園の三上和志という方が書かれた『人間の底』という本がある。この人は、奉天にいる時、終戦になって、ソ連軍に捕まり監獄にぶち込まれた。その監獄で助かったのは二人しか、いないそうである。一人は、三上さん、もう一人は女の人でソ連軍に暴行され、あくる日、窓から飛び降りた。命は助かったが発狂して日本に還されたのである。あとはみんな殺された。ことに、ある軍需会社の社長は、戦国時代の武士気取りで傲然としていたらしい。拷問の時、あまり苦しいので、大尉をにらんだ。「その目はなんだ」「この目は生まれつきじゃ」と答えると、大尉がやにわに机の引き出しからピストルを出して射殺したそうである。

三上さんは、相手が敵であろうが、友だちであろうが、みんな合掌する。大尉の前に連れてゆかれた時、ご縁があるのだから、佛のはからいと思って合掌した。大尉は不審そうな顔をしたそうである。しかし、いつも合掌されると、何もわからなくても、なんとなく気持ちが通じあってくる。そのうち、独房で彼が座っていたら、大尉が合掌してニヤニヤっと笑って廊下を通っていたそうである。そのうちに定期検診があった。軍医が「おまえは病気だから病院へ行け」と言った。

どうも大尉がそうさせたらしい。わたしは病気ではないと言いかけたが、相手がそう言うのだから、素直に病院に連れて行かれた。心のうちでは、病院に連れて行かれて注射で毒殺されるのだな、、と思ったそうである。しかし、そうなるのもご縁だと思って行った。ところが注射もなにもされずに、そのうちに還されてしまったのである。

人生には、行きたくなくても連れて行かれるというのがある。そういう時に、ここは俺の来るところじゃないと、いくら叫んでもだめである。そこへ佛が来ようと鬼が来ようと、敬虔に合掌する気持ちがあったら、すーっと場面が転換するのである。死ぬはずのものが助かったりする。

合掌することにはおそろしい力がある。

三上さんも、卑屈だとか、おべっかを使っているとか、ずいぶん悪口を言われたそうである。しかし、悪口を言った人はみな死に、この人だけが助かった。

やはり、生きて助かって大ぜいの人をしあわせにする方が、人間の生き方にかなっている。

なにも虚勢をはることはないので、痛いときは痛い、恐ろしい時は恐ろしいと思い、それでも縁が会うのだからと合掌する。話しを聞いて、そんなことなら自分でもできると思っても、できるものではない。

ふだんが大切なのである。

この人は、ふだん誰が来ても合掌する習慣を持っているから、すーっと手が合わせられる。人間は拝まれて憎むことはできない。自分が置かれたところへ、素直にすーっと入ってゆくことが大事であり、

どういうことが起こっても、それは佛のはからいだと考える考え方。

今の人は、そんなことは卑怯だとかなんとかいうが、卑怯でもなんでもやってみればいい。できないくせに卑怯卑怯という方が、よっぽど卑怯である。
よほど自分というものができていないと、仇に廻った者を拝むということはできぬ。

自分の置かれた場所で、縁ある人を大切にするというのは大事なことである。