幸せは相対を超えたところからしか生まれない

執筆者 | 5月 14, 2017

このタイトルは、昨夜の法話ライブで印象に残った言葉。

そして、自分の内奥から湧き上がってくる幸福感は、相対を溶かしていくのだと。
その通りだと感じる。

私たちは、あらゆることを相対として認識している。
自分と誰か、外と中、光と陰、良いことと悪いこと、出来ることと出来ないこと、などなど。

認識をするということはそのようなことでもある。
ところが、それはともすれば比較をつくる。評価をつくる。

それがポジティブで肯定的なものならば、未来に対する良きモチベーションになるだろう。

しかし、そこにネガティブなものが潜んでいたら、比較は嫉妬を生む。
否定的な評価は、自他の肯定感を傷つけてしまう。

そのような比較や評価からうまれる言葉は、聞いていてあまり心地よいものではない。

話をするときに、ついつい何かと比較したり、誰かと比較したりしてしまうことも多いのではないだろうか?

〇〇さんはこうだけど、△△さんはこうだよね、とか。

自分はわかっているみたいな感じで、なんだか偉そうになってしまっていないだろうか?
それは〇〇さんにも△△さんにも、どちらに対しても失礼なことだと思う。

そういうことって、たとえば自分が小さい頃に親から受けた態度などが残ってしまっていることもあるんだろうなとも思う。

兄弟と比較されたり、同級生と比較されたりして、それで評価されて嫌な思いをしたとか。
それと同じことを自分でも気づかずにやってしまうことって、あるだろうなと思う。

人を悪く言う言葉って、よっぽど自分が満たされていないということを自分で言っているようなものでもあるし。

人を貶めるような比較や評価の言葉は使わないのが良い。
それは、同時に自分自身のことも貶めている言葉だから。

比較や評価から生まれる言動は、つまるところ誰も幸せにしないのだ。

だから、相対を超えたところからこそ、幸せは生まれる。

 

 

 

 

 

 

※遠藤喨及師法話ライブ「体感せよ! 如来の福音を」
https://www.youtube.com/watch?v=w5hmp_Q-RxE