向上とは相互髄喜である

執筆者 | 12月 15, 2016

先日の指圧クラスのときに、喨及師が言われた言葉が、ずっと胸に残っている。

それは、「向上とは、相互髄喜である」という言葉。

「髄喜」とは、仏教のことばで、「他の喜びをわが喜びとすること」
「他の喜びが続くことを願うこと」
「他により多くの喜びが来ることを願うこと」

しかし、随喜が意味する本質的なところは、「一切が一切の存在を喜びあうことである」と教えていただいた。

そして、この一切が一切の存在を喜びあうことが、宇宙の本来の在り方であり、この心の状態こそが、魂が向上しているのだと。

この言葉を聞いたとき、とても心地よくイメージが拡がっていくことを感じた。

このような心の状態で、お互いがお互いの存在を大切に思い、その存在を喜びあえたら、どれほど豊かな世界が拡がっていくことだろうか。

「向上とは、相互随喜である」
この言葉を、自分の存在で顕し続けたい。

 

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◇以下は、タオの詩の「随喜」より。

随喜。
それは他の喜びをわが喜びとすること。
それによって、宇宙の源泉から喜びがやって来るから。

その喜びは、時期が来れば、形を伴うようになる。

しかし悲しいかな、人間には、他の喜びを妬む心がある。

嫉妬とは、暗い祈りである。
他にその喜びが来ないようにと願う事だから。

これに対して随喜は、他の喜びを、わがこととして喜ぶこと。

随喜心とは、他の喜びが続くことを願うこと。
他に、より多くの喜びが来ることを願う心。

嫉妬。
それは宇宙の無限性への無知から生まれる。

心が物質に隷属しているというのは、間違った概念だ。

実は物質は、心に隷属している。

そして心は無限である。
宇宙も無限で、幸福も無限。
だから喜びも無限である。

幸福が、他の人に来たからといって、あなたの幸福が減るわけではない。

あなたに幸福が来たからといって、他の幸福が減るわけではない。

あなたが他に願うことは、自らに願うことである。

だから、あなたが他の喜びを願って、どうして幸福が来ないことがあるだろうか?

他の幸福を見て随喜心を持つものには、同じ幸福が来る。

しかし、嫉妬をするものに、その喜びがもたらされることはない。

それが厳しい宇宙の法則である。
(しかしたとえ嫉妬しても、如来(みほとけ)が試みに幸福を、
〝一時的〟に与えてくれることがある。これもまた、人生の神秘の一つ)

あなたは宇宙の無限性や気と心と人生の正しい法則を学ぶ。

そして、〝嫉妬をするものは不幸になり、
随喜心を抱くものは幸福になる〟という真理が、基本的な人生観となる。
すると人生そのものが、随喜心の修行となる。

宇宙の根源は、無限に広がる喜びである。

仏教のさまざまな経典に、いかに〝喜〟という文字の多く出てくることか。

歓喜光(※注25)に満たされた仏陀は、人々に悟りの喜びを分かたれたのだ。

浄土は、随喜に満ちている。
宇宙そのものが随喜心である。

あらゆるたましいが、他の喜びを喜ぶ。
またその喜びがより永く、より多からんことを願う。

そして喜びが喜びを呼ぶ。
無限連鎖による深まりゆく喜びこそが、如来(みほとけ)の喜びである。

随喜心に生きる幸福な人々を増やすこと。
それもまた、道の使命である。
そうした人が増えるほど、この世界は生きやすくなり、喜びに満ちたものになるではないか?

(※注25…歓喜光)
阿弥陀如来は、十二の光明によって宇宙全体を照らしていると言われている。歓喜光はその内の一つで、喜びの根源となるもの。念仏三昧において歓喜光に触れると、たとえようもない喜びが内から湧いて来るという。