ジャーナリストである前に、一人の人間である

執筆者 | 1月 6, 2016

急に思い立って、フォトジャーナリスト、戦場カメラマン、市民活動家、フォトジャーナリズム月刊誌『DAYS JAPAN』の元編集長の広河隆一氏の生き様を描いたドキュメンタリー映画「広河隆一・人間の戦場」を見に新宿に行く。

冒頭のシーン。パレスチナのビリン村で、イスラエルによる占領に反対する地元の人たちと海外からの支援者たちが抗議デモをしている。イスラエル軍は容赦なく催涙弾を撃ってくる。広河氏は催涙ガスを浴びながら、ひるむことなく撮影し続ける。(喨及さんも確か、ビリン村で数年前、催涙ガスの煙の中、デモに参加されている。)

FBで映画「広河隆一・人間の戦場」の紹介があり、出演もしている娘さんの広河民さんが父、隆一氏への思いを以下のように述べられている。

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父の活動は、ずっと死と隣り合わせでしたので、
物心ついたときから、父の死をずっと意識していました。

父の最優先事項は、世界で出会った困難の中にいる子供たちのことでした。

里親運動や、救援活動のお手伝いを通して、同じ願いや目的を持つもの同士はたくさんいるのに、戦争のこと、原発のこと、救援のこと、、、やり方やこだわりの為に横に繋って大きな輪になれない多くの団体や個人があることを20代の時に不思議に感じたこと、そういう《こだわり》というのが単に《自分の中のプライド》であったり、《言葉とは違う別の何かを優先》させていることが見えてきて、上辺だけの活動家が多いことを知りました。

父は聖人でもなんでもないです。
ただ、《想いと行動が完全に一致する》ことや、《何》を最優先させるのか、
どんなことがあっても、そのために貫いていく姿勢》だけは黙っていても分かるので、父として、どうだったかという判断を娘として下す気持ちをあまり持つことはなかったです。

現場から離れると子供達のことが気になって仕方がない、そんなことも感じてました。
父に会いたいと思っていた思春期の頃に、ギリシャの女の子を取材していたと知って寂しくなったことが
一度あります。記憶にあるのは、それが最初で最後でした。

自分もチェルノブイリやシリアなどに訪れ、実際にその場所で出会う人の暮らしや心を垣間みる機会をもらいました。
少しの体験でしたが、《痛みに対してのイマジネーションを持つ》ことに繋がりました。
こども時代に、日本と世界のこどもの違いを視たことは言葉にはしきれないけれど非常に大きな影響を受けました。

そばにいてくれる優しいお父さんは家にはいませんでしたが、言葉で教えてくれることもありませんでしたが、
家庭は放任といえども《父の背中は、唯一無二の教育を与えてくれたんだな》と感謝の気持ちが湧いてきます。

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いつだったか、初めて本屋で月刊誌“DAYS JAPAN”を手にした時、“朝日グラフ”などよりも、紙質が上等で、ずっしりくる“その重さ”に、だんだん本を手放したくなってきたのを覚えている。『あなたは、この世界の不幸とどう向き合いますか?』という超難問だらけの問題集を手渡されたような気分になってきたからだった。

血の気がひくようなショックな写真を見ているうち、《世界の人々の痛みを引き受けたくない、オレには無理だ》というエゴが無関心を装い書棚に戻してしまう。私は父親と暮らした記憶がない。ものごころつく前に、生きている間は会えない場所へ帰っていった、、と後になって知った。だから、“父性を知らない”のは仕方がないだろう、、などと、いつ迄もうそぶいて、世界の不幸を見て見ぬ振りをしていられない。

想いと行動が完全に一致することや、何を最優先させるのか、どんなことがあっても、そのために貫いていった》広河隆一氏は映画のインタビューに、毅然と答える。「私は、フォトジャーナリスト以前に“ニンゲン”です。ニンゲンなら目の前に溺れている人がいたら救うのは当然のことです」と。私も一応ニンゲンの姿はしている。そして、広河氏と同じような想いは持っている。ただ、私に足りないものは行動だ・・・“不安と生きるかのか、、理想に生きて死ぬのか”・・そんな声がどこからか聴こえてくる。

上映が終わり、少しづつ明るくなった館内を見渡すと、夕方とはいえ観客は私を含めたったの5人だった。もったいない。多くの人に見ていただきたい。